灰根です。
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という映画を観てきました。
#志乃ちゃんは自分の名前が言えない
埼玉でのラスト上映間に合った!
吃音の女の子のお話。
原作も持ってて映画館で観ておきたかったので楽しみ。 pic.twitter.com/FYRZDTJTC8— 灰根/ハイネ (@ash_root_haine) September 20, 2018
本作は吃音を持つ女子高生のお話。
自分が吃音ということもあり、必ず劇場で観たいと思っていた作品です。
↓吃音についてはこちら。

原作は押見修造さんによる漫画。
『惡の華』という作品で有名な漫画家の方らしいですね。
原作のあとがきを見たところ、押見先生自身も吃音者であり、自身の体験を元に書いた作品だそうです。
原作の漫画は元から持っていました。
2年くらい前だったかな〜。
前職にて吃音で報告業務がうまくいかなくて、それまでできるだけ意識しないようにしていた吃音と向き合わざるを得なくなり、吃音を扱ってる作品をみようと思ったときがありました。
そのときに触れたのが『志乃ちゃんは名前が言えない』という漫画。
志乃ちゃんほど深刻ではないけど、吃音者として共感する内容がたくさんあって、なかなか辛い内容だった。
まさか今になって映画されるとは思っていなかったので驚きましたが、絶対に劇場で観ようと思っていました。
職業訓練や動画作りでなかなか時間が取れず、ようやく観れたのでレビューします。
(ネタバレもありますのでご注意を!)
心情描写が丁寧で感情移入できる
僕は映画はたくさん見る方ではないので専門的な事はよくわかりませんが、原作がある作品だとすれば、何を描写して何を描写しないのかが映画としての一つのポイントだと思っています。
今回映画を見て、志乃の心情描写がとても丁寧にされていると感じました。
まず心を揺さぶられたのが、原作にもあった冒頭の自己紹介のシーン。
主人公である志乃は母音から始まる言葉が特に苦手なので、タイトル通り自分の名前である”大島 志乃”という言葉が上手く言えません。
なので、自分の名前を必ず言わなければならない自己紹介をとても恐れているわけです。
高校生になったばかりの新クラス、周りは全員知らない顔、自分の第一印象を左右するであろう大事な自己紹介。
ー絶対にどもりたくないー
志乃は自分以外の誰かが自己紹介をしているときも、その人の自己紹介の内容なんか全く耳には入っておらず、いずれ必ず来るであろう自分の番に対する緊張と不安で頭がいっぱいな状態で自分の番を待っています。
そして、逃げ出したくなる気持ちを必死にこらえて自分の番を迎えると、案の定上手く自己紹介ができず、周囲には嘲笑われ、絶望的な気持ちで自己紹介を終えるという辛いシーンです。
映画の自己紹介のシーンで僕が感心したのは、志乃の自己紹介だけを描くのではなく、志乃の番になるまでの他のクラスメイトの自己紹介も含めてほとんどノーカットで描いていたことです。
「吃音でうまく言えない」シーンだけを描くんじゃない。
「吃音でうまく言えそうにないという不安を抱えながら自分の番が来るのを待っている」シーンまでを描写する。
ここがポイント。
吃音はどもっている瞬間だけがフォーカスされがちですが、吃音者にとってどもっている瞬間だけが辛いんじゃないんですね。
むしろ、どもるかもしれないと考えてしまう不安や恐怖が、何よりも辛かったりします。
「この後どもるんじゃないか」という予期不安や緊張は、脳裏にこびりついて簡単には剥がれてくれません。
映画では、自分の番が迫って来るに連れて、不安と緊張で頭がいっぱいになり、必死に呼吸を整えようとしても皮肉にもどんどん呼吸は浅くなっていく志乃の様子が、実に生々しく表現されていました。
自分が吃音当事者というのもありますが、非常に感情移入してしまう描写で、志乃同様に心臓がドキドキして辛い気持ちになりました。
これが志乃の自己紹介だけを抽出して描写してしまうと、ただ単に志乃がどもって自己紹介に失敗して落ち込んだというシーンにしかならないんですよね。
それを、志乃と志乃以外を両方描写することで、対比ができる。
吃音に悩むのは、人が当たり前にできていることを自分ができないからです。
できる人がいるからこそ、できない自分と比較して、落胆し、嫌悪します。
映画では、志乃の番になるまでに、自己紹介を”当たり前に”できている人たちがしっかりと描写されているので、当たり前にできないであろう自分を想像し、よりどもることへの恐怖を感じてしまう志乃の姿が際立つんですよね。
また、志乃役の南沙良さんの演技がこれまた圧巻で、表情、目線、呼吸など一挙手一投足が志乃の不安や恐怖や緊張を見事に表現していました。
ホラーでは怖いが褒め言葉なように、言葉は悪いですが、見ている者が志乃に感情移入してしまい非常に辛い気持ちにさせられる素晴らしい描写でした。
この他にも、歌ではどもらなかった志乃が菊池の存在により歌声すらも出なくなってしまうところ(個人的に原作で一番辛いシーン)や、歌声を笑ってしまったことを加代に謝るところ、ラストの志乃の悲痛な叫びのシーンなど、原作で大切なシーンはどれも丁寧に描写されています。
漫画が原作の映画化はたびたび不評になることも多いですが、そんな心配も及ばず思わず感情移入してしまいました。
“しのかよ”としての活動
志乃と加代で結成されたフォークデュオ、しのかよ。
原作では、路上で歌ったときにすぐに菊池に見つかってしまい、次の展開を迎えますが、映画では”しのかよ”としての活動が漫画よりもゆっくり丁寧に描写されます。
「翼をください」、「あの素晴らしい日をもう一度」以外にも、原作にはなかったミッシェルガンエレファントの「世界の終わり」や、ブルーハーツの「青空」まで歌われていて、このシーンがとてもいいんですよ。
↑サントラも出ているようです
「自分なんかが人前で歌うのなんて無理だ」と思っていた志乃が、加代と共に外に飛び出して、暗かった表情が徐々に変わっていく様は非常にカタルシスがありました。
志乃役の南さんと加代役の蒔田さんの表情がとても眩しいんですよね。
14歳の子らしくて、その年齢の人にしか出せないようなキラキラ感。
映画の志乃は本当に楽しそうに歌うし、加代も本当に楽しそうに弾いています。
“しのかよ”としての活動が2人とってどれだけ大切な時間なのかが、映画では伝わってくると思います。
そして、そんな楽しそうな志乃を見た後だからこそ、この後の菊池の乱入、歌声が出なくなる絶望や悔しさが映えるわけです。
落として上げてまた落としてって展開ですからね。感情の揺さぶりが激しい。
だから心に残る。
原作との相違点
原作がある作品の映画化は、時として大きく改変があったりオリジナルとはかけ離れた内容になることがありますが、この映画は基本的には原作通りに作られていますので原作を読んでいた僕でも違和感はありませんでした。
とはいえ、いくつか相違点があるので触れておきます。
菊池が過去にいじめられていた設定
原作では空気は読めないものの、サッカー部で活発な男の子のような印象で、友達はいました。
しかし、映画では明確に菊池は周りから浮いていて、志乃や加代のように居場所がない人のように描かれています。
校舎裏で吐いているシーンや、中学生の時にいじめられていたという設定になっていました。
原作では志乃の苦悩や葛藤が焦点でしたが、映画では志乃、加代、菊池の三者三様の苦悩や葛藤を描写した作品に昇華されています。
原作では単行本1冊の量しかないので、110分間の映画にするにあたり加代と菊池について膨らませたのでしょうね。
そういう意味では原作よりも、加代と菊池についてはキャラクターが深掘りされていて、志乃と加代と菊池の関係の危うさがより感じられるようになりました。
そりゃあ上手くいかないし衝突するよな、と。
加代から誘う
志乃が加代の家を訪れる場面があります。
原作では、志乃が加代との別れ際に一生懸命に勇気を出して紙に「かよちゃんちあそび行っていい?」と書くことで、志乃から加代にお願いをしています。
しかし映画では、別れ際になんだか言いたげな志乃の様子を察し、「うちくる?」と加代から志乃を誘っています。
なぜ変更したんでしょうかね〜。
志乃が誘うのはリアリティがないと思ったのかなあ。
個人的には志乃が勇気を出して行動したシーンだったので好きだったんですが。
変更した理由はよくわかりませんでした。
言い換えを察しなくなった
志乃が加代の家を訪れた時、母音から始まる「ありがとう」が言えず、「サンキューです」と言い換えてお礼を述べるシーンがあります。
原作では、その様子を加代が見て「いま、ありがとうが言えなかったら言い換えたの?」と言い換えを察するのですが、映画では、「あんたの喋り方、病気なの?」とのようなセリフに変わっています。(映画版はうろ覚えなので正確ではないですが)
加代の、紙に書けばいいという提案や、言い換えを察するところが、やっぱり志乃にとって他の大勢とは違い加代は特別な人なんだなあと感じる場面だったのですが、言い換えを察するのはリアルじゃないと脚本の方が思われたのかもしれませんね。
志乃のキャラクター
原作に比べて志乃は感情を露わにしています。
原作では、自己紹介のときは緊張しながらも表情はがんばって明るくしようとしています。
映画では、わかりやすいくらいに俯いて辛い表情をしています。
自己紹介以外の場面でも、志乃の母親が催眠療法を試しに受けてみたらと促すシーン。
原作では、やんわりと断り外に出て行く志乃ですが、
映画では、感情的になり物を投げつけてきつく母親に当たります。
これは映画にするにあたり、志乃の心情が誤解して伝わらないようにわかりやすくしたのかもしれませんね。
吃音の症状の重さ
これは意図的にやっているのかはわかりませんが、志乃の吃音の症状は、映画の方がより重度のように思えました。
原作では母音から始まる言葉こそ、難発でかなり発声に苦労しているものの、それ以外の言葉はスムーズに言えたり、スムーズでないにしろ連発気味でなんとか言えていました。
例えばどもって言葉が出ないときに間を埋めるように言う「すいません」はスムーズに言えていたし、「いえ」や「あの」は母音から始まる言葉ながらどもらずに言えている。
吃音者全員がそうなのかはわからないですが、自分の経験上これはかなりリアル。
(なぜか苦手な音でも、「えーと」とか「いやー」とか「あのー」とかは難なく言えたりする。)
一方、映画での志乃は、母音以外のどんな言葉もかなり難発に近いような印象で、加代と仲良くなって症状が改善するまでは、ほとんど喋ることができないような症状でした。
志乃役の南さんがインタビューで演技について触れていました。
――南さんは演技に入るまでに、どういう風に作品をご自身の中に落とし込んでいったのでしょうか。
南:原作を読むまで吃音がどういうものかよく分かっていなかったんですね。だから撮影に入る前に吃音について知ろう、と当事者の方にお話を聞かせていただきました。皆さん、普通に私と雑談してくださいました。お話を聞く前は、もっと違うことを想像していました。
押見:南さんは、どもっているときの演技には力が入ってました?
南:吃音の方に取材したときにそう聞いていたので、同じように力を入れて演技していました。足とかには特に。
――吃音のセリフ部分について脚本にはどういう風に書かれていたんでしょうか?
南:「二、三回どもる」というようには書かれていましたけど、監督には「気にしなくていいよ」と言われていたので、自然に演技をしていました。
――では、志乃ちゃんはこういうときこうどもるだろうな、というのは南さんが考えてやったんですか?
南:そうですね、監督とお話をしながら進めました。
インタビューの内容を見るに、脚本での指示ではなく、南さんが感じるように演技されていたようです。
吃音を知るために吃音当事者の方をお話しされたということなので、もしかするとそこでお話しされた方の症状が重度の難発傾向の症状だったのかもしれませんね。
南さんの吃音の演技は、原作の志乃の症状とは多少違うかもしれませんが、決して大袈裟なものではありません。
映画と同じくらい重度な難発傾向の吃音者の方もいらっしゃいます。
映画版の志乃を見ると、あの学校の中で周りと打ち解けてコミュニケーションを取るのは簡単ではないと感じますね。
他にも細かい違いは結構ありますが、原作とかけ離れているようなものはないので、原作ファンでも安心して観られる作りになっていると思います。
オフィシャルブック
映画化記念に、パンフレットを兼ねたオフィシャルブックが発売されました。
こちらが非常に良くできていて、カラー場面フォト、キャスト紹介、制作秘話、押見さんによる原作解説、描き下ろしスピンオフ(漣くんは自分の名前が言えない)まで掲載されています!
原作解説はこういう意図でこの場面を描いていたのか、という新事実を知れて非常に面白かったです。
スピンオフも原作が好きなら、絶対に読んだほうがいいです。
僕が最初行った映画館ではオフィシャルブックの取り扱いがなく(というか存在すら知らず)、渋谷のアップリンクでの湯浅監督のトークショー付き上映権では、オフィシャルブックを買うとサインまでくれると聞いて、2回目にも関わらず行って買ってきました。
関東昨日で最後かと思いきや、トークイベントのある上映が渋谷の小さな映画館であると聞きつけて、2日続けて行ってきた。
ファンブック欲しかったから買えてよかった。サインと写真も撮ってもらいました〜😎
上映延長したらしいので、ご覧になってない方はぜひ!#志乃ちゃんは自分の名前が言えない pic.twitter.com/iwMUSbQu4C— 灰根/ハイネ (@ash_root_haine) September 21, 2018
今見たらAmazonでも買えるので、原作と映画が気に入った方で手に入れていない方がいたらぜひ読んで見てください。
総評
この映画は個人的にとても良い映画でした。
正直ちょっぴり泣きました。(笑)
涙腺が強いのか人と泣くポイントが違うのか、あんまり映画とか何かで泣くことはあまりないんですが、当事者なこともあり他の作品より感情移入してしまったんでしょう。
実は僕にとっては自己紹介はまだいくらかマシなんです。
理由は3つ。
①自分の名前を苦手としていないこと
②自己紹介で話す内容は自由度が高いこと
③あくまで自分の紹介なので自己責任でありいくらか気が楽なこと
自己紹介に必須である名前さえ言えてしまえば、後は最悪言えないものは諦めて言わない選択をすればそれで済むからです。自由度が高いし、言わなくても誰に迷惑をかけるわけでもない。
まだいくらか気が楽です。
しかし志乃にとってそれは違います。
吃音者にとって言い換えのできない固有名詞は非常に厄介で、人生で何千回と言うであろう固有名詞である自分の名前が苦手となると、それはもうあらゆる場面で困るわけです。
吃音の人の中には、自分の名前が苦手だからと苗字を変えた人もいるくらいです。
そういった理由から志乃ほどの自己紹介への恐怖は僕にはありませんでしたが、それでも自分の趣味について本当は話したくても言えないことが悔しかったり辛いと思ったことは人生で何度もあります。
自分の番が回ってくる恐怖を一番感じた場面は音読です。
音読は一言一句言い換えができません。
あのときの自分の番が回ってくるまでの地獄のような時間を、志乃の自己紹介のシーンで思い出しました。
そうした感情を追体験できる、この映画は本当に素晴らしい出来です。
吃音当事者としてこの映画を見たので、吃音でない方がこの映画を見て良い作品と思えるかは正直わかりません。
ですが、原作者の押見さんは以下のことを述べています。
この漫画では、本編の中では「吃音」とか「どもり」という言葉を使いませんでした。それは、ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。
とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になればいいな、と思って描きました。著者:押見修造『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』あとがきより引用
原作者の意思に湯浅監督も賛同し、映画においても「吃音」や「どもり」という言葉は使われていません。
僕は、題材は吃音ながらも、どこか志乃に共感してしまう人は吃音者以外にもいるんじゃないかと思っています。
東京では、上映が延長され、地方ではこれから公開というところもあります。
吃音者の方はぜひ、そうでない方もぜひ、劇場で観てみてください。